スズムシ 月見:「月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど」のストーリー

(23番)月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど
 月を見るとものごとが際限なく悲しくなってくる。自分一人だけの秋ではないけれど。


 今からみると想像もできませんが、平安時代の頃は夜、外に出れば、月の光以外に「灯り」として頼れるものがありませんでした。ですから、月はいわば生活〝必需品〟であり、当時の暦が月の位置と状態を基準にしていたことは当然です。
 そのようなことから、月は太陽と並び、ある種信仰の対象のような存在になったのではと思われます。そして太陽が光も熱もすべてを与える代わりに人間に厳しさも示し、直接これを見ることを許さないのに対して、月は夜間の光(それも実は太陽光を反射しているだけ)しか与えませんが、人間を優しく受け入れ、直接これを見て拝むことを許します。
 当時の日本人は、真っ暗な天にひときわ明るく輝き、しかも周期的に規則正しく形を変える月を、神にも匹敵するものとして、これに祈りを込め、自らの悲しみや苦しみが慰められることを願ったのでした。特に、月が美しく見え、何かともの悲しい季節である秋に月を拝むと、とどめなく悲しみがあふれてくるように感じられるのでしょう。もちろん、このような悲しみは世の中の人びとが皆感じるのですが、各個人がそれぞれ月と一対一の感情的対話をすることから、これを「自分だけの秋の悲しみ」と感じたのかもしれません。

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