肩車で紅葉を見る:「小倉山峰の紅葉葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」のストーリー

(26番)小倉山峰の紅葉葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ
 小倉山の峰を彩る紅葉の葉よ、もし人の心がわかるなら、せめてあと一度だけの行幸まで見頃を保ってくれ。


 京都の小倉山は、桂川を隔てて嵐山の北側にあり、嵐山とともに、古くから紅葉の名所となっています。この小倉山のふもとで紅葉を見た宇多法皇が、その見事さから、これをぜひ自分の子(醍醐天皇)にも見せたいものだ、と言ったところ、これを聞いた藤原忠平(のちの貞信公)が、当の醍醐天皇に伝えたくて、この歌を詠んだといわれています。あたかももみじの葉に心があるかのように、「次の行幸のときまで、このままの状態でいろ」などという命令は、当時の藤原氏の権勢をもってもかなうはずのないことですが、要するに醍醐天皇に間接的に小倉山への早期の行幸を勧めたかったわけであり、宇多法皇の気持ちを忖度(そんたく)した歌といえます。
 この件は別にして、自らが感動するほどの美しいものを見たときには、これをどうしてもわが子にも見せたいと思うのが親心なのでしょう。この絵の場合も、かつてこの場で見た美しい光景を何としても息子にも見せたいと思った父親が、その思いをかなえた場面を表現したつもりです。この父親は、紅葉の美しさそのものよりも、むしろ肩車の上でこれに見とれている息子のほうをよろこばしく感じているようです。

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