魔女の宅急便:「大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立」のストーリー

(60番)大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立
 大江山の生野への道は遠いので、まだ天の橋立に行ったことがなく、また母からの手紙なぞ見ていません。


 名高い和泉式部を母にもつ作者は、自身も歌が巧みであったそうです。ある歌会で藤原定頼が、(夫とともに丹後の生野に赴任している)母親にここで披露する歌を代作してもらったらどうかなどと失礼な冗談を言ったところ、即座にこの歌を詠んで、「母に歌を作ってもらい、それを手紙でもらったなどとんでもない言いがかりです」とやんわり抗議したそうです。
 以上が、この歌の通常の解釈ですが、母親和泉式部は、はたしてこのように娘の才覚を信じ、安心して任せておけたでしょうか。もし、この母親が大そうな〝親ばか〟で、娘のことが心配で心配でたまらなかったとしたら、次のような話の展開も(笑い)。
 彼女は、今ごろ娘の小式部内侍が歌会の席で困っているかもしれないと心を痛め、急いで気の利いた歌をいくつもしたためて、あの「魔女の宅急便」に託します。そうすれば、この手紙は天の橋立などひとっ飛びで京の都に届けられます。もちろん、小式部内侍は代作など一度も頼んだことがないとはいえ、こんなことでは、あらぬ代作疑惑の「証拠」とされてしまいます。願わくは、歌会がまさに行われている最中に、この手紙がその会場に届いてしまうことがないように。

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