ナラの小枝 夕涼み:「風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける」のストーリー

(98番)風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける
 風がそよいでいる楢の小川の夕暮は、このみそぎの行事だけが夏であることのあかしなのであった。


 京都の上賀茂神社では、その昔六月三十日に六月祓(みなづきはらえ)というみそぎの行事が行われました。旧暦の六月三十日ですから、現在の暦でいうと八月の初め頃になり、したがってこの時期は今でもやはり〝夏〟なのですが、当時は七月一日から〝秋〟が始まるとの決まりだったことから、この日は「夏の終わり」とされていました。
 もう「夏の終わり」ということでもあり、夕暮どきの「ならの小川」に吹く風は気のせいか、「秋の始まり」を感じさせる涼しい風だったようです。ここで、「ならの小川」とは上賀茂神社境内を流れる御手洗川(みたらしがわ)であるとともに、神社内のナラの木の両方の意味をかけているとされています。
 しかしこのような秋の気配にもかかわらず、きょうこの日に六月祓の行事が行われているこの事実だけが、今が(暦の上で)夏であることの証しなのだ…というのがこの歌の一般的な解説ですが、そうだとすると、正直言って私はこのような多少こじつけ的な歌の主旨にはあまり追随できません。
 そこで今回は、―夏の夕暮どきに静かに小枝を見つめているひとりの女性。ハンカチで汗を拭いているとはいえ、涼しい風も吹き始めている―という絵の表現にとどめました。

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